西暦 |
石橋顕 |
後藤浩紀 |
1973 |
10月17日、福岡市西新病院にて誕生。
曾祖母他界の数時間後に生まれ、
その生まれ変わりと呼ばれる。 |
8月25日、福岡市内、森産婦人科にて誕生。
3800gのデブで逆子、帝王切開だった。
生まれる前から親に迷惑をかける。 |
1979 |
保育園に通っていたが、なぜか登園拒否。あまりの長さに親もあきれ、意地の張り合い。卒園式までとうとう行かず。あまり意味のない負けん気は、この頃からあった。 |
福岡市から健康優良児として表彰される。
が、医者には肥満児と診断され、幼心にショックを受ける。 |
1980 |
福岡市立大原小学校入学。 |
福岡市立小笹小学校入学。 |
1982 |
引っ越しの為、福岡市立内野小学校へ転校。実はここでも2度目の登校拒否、3ヶ月後普通に登校し始める。友達は毎日家に呼びに来てくれていたのに、行かなかった理由は未だ分からず。 |
肥満の解消のため、少年野球クラブに入部。おかげで小太りさんは返上。実はこの時サッカー部に入らなかった事を、今でも後悔している。きっと日本代表で高原とツートップを組んでいただろう。 |
1986 |
福岡市立早良中学校入学。陸上部中距離に入部。 |
福岡市立平尾中学校入学。バスケ部に入部。 |
1987 |
部活動に励むが、市大会止まり。
走るセンスはあまりなかった。 |
部活動に励むが、区大会止まり。
バスケのセンスはあまりなかった。 |
1988 |
一番可愛がってくれていた祖父が他界。祖父が願っていた修猷館高校入学を、この頃から意識し始める。 |
公立高校の受験に失敗し、人生最初の大きな挫折。
しぶしぶ私立の西南学院へ。 |
1989 |
祖父の家の目の前にある福岡県立修猷館高校へ合格し、誰よりも先に祖父へ報告。入学後中学時代の陸上部の先輩に誘われヨット部入部。が、入部した次の日にその先輩は退部。複雑な心境のままとりあえずヨットを始める。 |
修猷館高校の目の前にある西南学院高校入学。ラグビー部とヨット部のどっちに入るかで悩み、どっちでもいいや!とコインの裏表でヨット部に決める。 |
1990 |
とびうめ国体強化の沖縄合宿へ参加した事が自信につながった。インターハイ予選を勝ち抜いたが、学校側の登録手違いにより出場権剥奪される。これがきっかけで日本一への執念が芽生え、猛練習に励む。 |
ヨットの魅力にたちまち取りつかれ、猛練習の日々。とびうめ国体、少年男子スナイプ級で優勝。その勢いで、好きだった女の子に人生初の告白。努力が必ずしも報われない事を教えられる。 |
1991 |
インターハイ会場にて右手骨折。ドクターストップかかるが強引に出場し4位。ギブスがとれた直後の国体で、念願の優勝を勝ち取る。 |
インターハイ、国体ともに惨敗。そして早稲田大学の受験にも失敗。浪人決定。経験した事のない挫折感を味わう。 |
1992 |
早稲田大学人間科学部へ入学。ヨット部入部。インカレに出場するがDNFをとり、誕生日に坊主になる。 |
浪人をしながら、人生についてあれこれ考え、ヨットで生きて行くことを決意。 |
1993 |
三戸浜の練習のおかげで強風が得意になる。
この頃同級生の吉峰君と切磋琢磨する。 |
同志社大学文学部へ入学。ヨット部入部。
470を希望するも、無駄な抵抗。 |
1994 |
故郷小戸での全日本インカレ。
470級MVP獲得。 |
故郷小戸での全日本インカレ。
スナイプ級MVP獲得。
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1995 |
ヨット部主将になり、組織とリーダーシップの難しさを痛感。
この頃から起業を夢見始める。 |
全日本インカレ個人戦優勝。
団体戦も優勝。 |
1996 |
東陶機器株式会社(TOTO)へ入社、東北支社(仙台)へ配属される。ヨットの第一線から少し離れるが、頃良くみやぎ国体強化が始まり復帰する。 |
ヨット部主将になり、全日本インカレ総合優勝。これでどうだと、ふられた同じ相手にもう一度アタック。人生の厳しさを教えられる。 |
1997 |
仕事とヨットの優先順位を迷いながら、両立を図る。 |
オムロン株式会社へ入社。
念願の470クルーに転身し、シドニー五輪を目指す。 |
1998 |
ヨットへの思いが強くなるのを分かりながら結果が残せず、現状維持。
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ナショナルチーム入りし、初のヨーロッパ遠征。
世界選手権で、自分は井の中の蛙だと痛感。 |
1999 |
世界選手権へ初出場し惨敗。初めて世界のトップを肌で感じ、この世界に飛び込む事を決意する。3月に退社。
7月のシドニー国内最終選考も敗退。
10月より中村/中村組のサポートとして、シドニーの最終選考に帯同。惜しくも代表を逃し、さらにオリンピックへの思いが強まる。 |
2回目の世界選手権で、会社員セーラーの限界を感じる。
7月のシドニー国内最終選考も敗退。
すでに会社を辞めていた石橋と意気投合し、11月に退社。同時にキャンペーンサイト、sailfastを立ち上げる。
12月より井嶋/生田組のサポートとして、シドニーの最終選考に帯同。最終選考の厳しさを肌で感じる。 |
2000 |
極寒の仙台の木造アパートで、二人暮らしをしながら活動開始。
帰る金もないのに、無謀にも3ヶ月のヨーロッパ遠征を敢行。
支援Tシャツを発売し、そのお金でなんとか帰国。
7月7日、石橋が7年間付き合った彼女と結婚。
会社を辞めた一文無しとの結婚を許してくれた彼女の両親に感謝。 |
2001 |
極貧。この年の生活の苦しさは一生忘れられない。
ヨーロッパ遠征では強風下の走りに手応えを感じる。
みやぎ国体成年男子470で2位、アジア選手権銀メダル。
ナショナルチーム選考レースも3位で涙を呑む。 |
2002 |
活動拠点を福岡へ、三船コーチと活動開始。
根性論から科学的アプローチへとスタイルが転換していく。
9月、世界選手権にて国別9位でオリンピック国枠獲得。
10月、福岡オリンピックウィーク優勝。
11月、後藤が13年間ふられ続けた相手と、ついに結婚。
12月、ナショナルチーム選考レース優勝、プレオリンピック代表獲得。 |
2003 |
春の遠征ではケガをして緊急帰国。
満を持して臨んだプレオリンピック、世界選手権、共に惨敗を喫する。
12月からはオーストラリアに武者修行。 |
2004 |
ついに最終決戦の年。
5月の世界選手権(クロアチア)、そして8月のオリンピック。
この5年間で積み上げてきたものの真価が問われる。 |